「俺たちが最初で、俺たちが最後だ」 ―― 縦横無尽に跳躍する音塊に打ちのめされて。。。(ザ・ポップ・グループ “Y”)

 
「これまでに聴いた音楽表現の中でもっともすぐれた作品をひとつだけ選べ」 と問われたら、迷わずこう答える。
 
ザ・ポップ・グループ の 『』 を置いてほかにはない」 と ――
 
 

 
ロック がただ形としての音楽を維持していくしかなくなった時、パンク は現れた。
そして、その パンク さえも ロック あるいは ロックンロール のフォーマットから自由になり得ないというジレンマ。
形式、様式が「思想」までも規定してしまう、そうした危機感が生まれつつあった70年代末、
ザ・ポップ・グループ はシーンの中に登場した。
 
メンバーは5名。結成時は皆17歳、ハイスクール在学中だったようである。
ほとんど音楽的なキャリアもなく、おそらく既製の ロック に対する思い入れも、語るべき言葉もなかったと思われる。
あったのは、ただあり余る激しい自己表出への欲望とパッション。そして突出したセンスと類稀な「才能」である。
ザ・ポップ・グループ」 というユニット名は、シーンに対するアイロニー、あるいはカウンター的な意図を示すものであろう。
このネーミングは、実にシンプルであり、凝り固まった教条的な匂いもない、オープンで自由な発想である。
 
 

 
 
さて、「」 である。
プロデュースを務めるのは、レゲエ のユニット、マトゥンビ のリーダー、デニス・ボーヴェル である。
なぜ、彼を起用したのかという問いに対し、彼らはこう答えている。
レゲエ のプロデューサーは良い音を得るために手段を問わないからだ。そして、レコードから ロック らしさを排除するためだ」
当時の彼らの思いの中には、パンク・ムーブメントを含む ロック なるもの、それを成立させている方法論とイデオロギーへの強烈な不信感、そして、既存の ロック を徹底的に解体し尽くそうという指向性が抜きがたく存在している。
このアルバムはそうした彼らの持つ資質が、ボーヴェル によって過剰なまでに 「演出」 された ダブ 的手法の駆使を通してさらに増幅された ――
―― それこそ、音が縦横無尽に跳躍しまくるような、自由奔放な作品 ―― それまでのいかなる既存のジャンルにも納まらないノンジャンルな作品として結実している。
 
ここには、卓越した演奏テクニックをひけらかそうとか、聴きやすく、心地よい、様式としてまとまったサウンドを作ろうとか、高度な音楽性を表現しようとか、そうした既存のシーンに数多見られた諸々のコンテクストから徹底して自由であろうとする、従来の音楽のどんな 「テンプレート」 にも当てはまらない強烈な意志が存在している。
当時の「時代精神」 が持っていた激しく燃え盛るような カオティック な状況を全身で体現し、メタフォリック なメッセージを叩きつける ――。彼らの衝動はそのような形でしか表現し得なかった。。。
 
俺たちは何も持たない
何も学ばない
何も知らない
何も理解しない
何も売り渡さない
何も助けない
ただ、裏切るだけ
俺たちは決して忘れない
"Thief Of Fire"
 
 
待つこともできない
逃げることもできない
過去を探し求めることもできない
今が全てだ
俺たちが最初で
俺たちが最後だ
"We Are Time"
 
暴力。狂気。破壊。まさしく カオス のような音塊。
リズム・セクションが創出するダイナミックでヴィヴィッドなファンク・ビートに絡みつくフリーキーなサックスとジャジーなギター。
これらを丸ごと切り裂き、容赦なく解体し、原形をとどめないような形で再構成する ボーヴェル の ダブ
そうした カオティック な音響の中で浮遊し、聴き手の期待をことごとく粉砕する、時に呪文のように、時に絶叫するように地の底から響き渡ってくるがごとくのヴォーカル。
かつて、セックス・ピストルズ を脱退し、後に パブリック・イメージ・リミテッド を結成するに及んだ ジョン・ライドンジョニー・ロットンが言い放った言葉 「ロックは死んだ」 ――
―― この言葉は、まさしくこの作品、「」 にこそ冠されるべきものである。
 
今でも折に触れて、この作品に耳を傾ける。
リリースされて、はじめて聞いたときの衝撃は、今でも色褪せていない。
私の、決して忘れ得ない、重い 「原点」 のひとつである。 
 
 
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