「統合失調症」 と 「自己組織化」 ―― われわれは、自他の非対称性を、そして、永続する 「一方通行性」 をかろうじて生きている。。。

 
個人であっても、社会集団であっても良い。
ひとつの統一のとれた「組織(システム)」―― もっとも、厳密にはここから定義を始めなければならないのだが ―― があった場合、その構成要素が互いに影響を与え合いながら、システム全体の 「秩序形成」 にも影響を及ぼしている状態。
―― これが、言わば 「自己組織化」 の過程である。
 
自己組織化」 は、一見すると体系が安定を保っているように見えても、実はその内部で相互に情報を交換し合って、組織全体をさらに変化へと促すダイナミックな過程でもある。
この概念は、「システム理論」 の大きな支柱として、すでに、物理学や化学の領域に限らず、生物学、天文学、工学、さらには生態学、経営学、社会学など、およそあらゆる分野へと援用されている。
 
 

 
しかし、「自己組織化」 の考え方というのは、何よりも、世界と個人とが相互にかかわりあってゆく生々しい状況にこそ打ってつけの、そうした場に現れる事態を端的に記述できる最適な概念枠なのではないかと思う。
 
たとえば、「私」 が 「世界」 と 「出会う」 ときには、「私+世界」 でも 「世界+私」 でもない、「私」 と 「世界」 とが一気に現れる 「場」 がそこに形成されるように見える。
 
実は、こうした形成場面における、ひとつの 「特殊な事態」 を、われわれは 「統合失調症」 と呼んでいるように思う。
精神病理学 の次元においては、まず 精神病 が 「異常な病」 であるという規定を取り払うことからはじまる。
すでにこの時点で、「異常」 であることと、「病」 であることの 「二重の呪縛」 からの解放を企てねばならない。
とりあえずここでは、「病者が彼なりに自らを示し、医師が彼なりに自らを示すときに、両者の“間”に現象する事態」 を 精神病 とする ―― という 木村敏 の考え方に依拠したい。
 
この 「精神病論」 を拡張すれば、「病」 とは、「個人」 と 「世界」 との 「間」 に生ずる歴史的、実存 的な出来事であると解釈することができる。
もちろん 精神病 は決して 「正常」 な状態ではないが、自己と他者との 「間」 で 「新たな自己」 の抽出される過程(個別化)において危機的な事態が生じた際に、「統合失調症」 という 「存在様態」 が医師の前で呈示され、「診断」 される ―― ということなのであろう。
西田幾多郎 の言葉を借りれば、
「私」 が 「私ならざるもの」 に出会う瞬間、「私が他に於いて私自身を失うと共に汝もまたこの他に於いて汝自身を失う」 ―― その時こそが、私(自己)と汝(他者)の危機的事態の始まりということになろう。
 
 
適切な捕捉説明になるかどうかわからないが ――
精神科医、安永浩 が、「統合失調症」 を言及することに絡めて、われわれの体験の中に含まれる 「自他」/「全体部分」 などの二項対立について、論理学的な一般化を試みているので紹介しよう。
①「おのおのの対立項A、Bは、それぞれの見地において完全な分極をなし、第三の項Cが介在する余地はない。
  また一方を欠いては成立しない」
②「体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることはできない」
③「Bは〈Aでない方の面〉といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験に現れるため、理解される」
④「Bを公理とすることはできないし、〈Bでない方〉と言ったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない」
以上のような論理展開によって、安永 は、「自己」 の 「他者」 への 「陥没」、つまり 「私が私でない感じ」 という 「統合失調症」 特有の危機的事態がどういうものなのかを、逆説的に説明しようとする。 
ここでは、たとえば 「自己」 と 「他者」 とがまったく同等の権利を持っているのではなく、〈「自己」 でないもの〉を〈「他者」 であるもの〉と一方的に規定する 「力動関係」 が存在しているのである。
この場合、常に 「自己」 が根源的に前提されていて、そののちに 「他者」 を経験したという記述が可能となるのであって、二項対立の非対称性、永続する 「一方通行性」 を綱渡りするようにわれわれはかろうじて生きているのである。
―― これはまさに 「自己組織化」 の過程であろう。
 
ところが 「統合失調症」 では、往々にしてこの 「一方通行性」 が 擾乱 してしまう事態が生ずる。
つまり 「非他」 として 「自己」 を構造化してしまうために、「他人の中に自分が入ってしまう」 といった奇妙な経験に陥ることになるのである。
 

 
もうひとつ、補足説明の材料を挙げてみたい。
神学者、 八木誠一 の 「フロント構造」 理論である。
「自己」 と 「他者」 とが出会う最も間近な場面を、八木 は 「フロント構造」 と呼んだ。 
 
個々で一枚の仕切り壁で隔てられたふたつの部屋A、Bを考えてみる。
このとき、Bの壁のうちでAに面した部分は、すでにAの一部となっている。
同時に、Aの壁の一部はBの一部となっている。
したがって、二つの空間、A、Bはそれぞれ独立して立ち現れているのではなく、ひとつの壁を共有しつつ、AではないBが、BではないAの一部として現れることでAの存在あるいはBの存在を成り立たしめているのだ。
A、Bを 「自己」、「他者」 と読みかえれば、仕切り壁(「フロント」)は、単に両者を分節化しているだけではなく、そこで自己が他者と出会い、「自己」 が 「他者」 に、「他者」 が 「自己」 に属しているのだ ―― と捉えることことができる。
私と外界との間には無数の 「フロント」 が置かれている。
そして、私の身体空間は外部に対しては無限に広がり、身体内部に対しては極小にまで ―― 一個の細胞は隣接した他の細胞と物質や情報を交換させている ―― 縮められていく。
 
自己組織化」 の観点から見ても、ある 「フロント」 において 「自己」 と 「他者」 が対峙している時、「自己」 にはその内に 「他者」 を溶け込ませるだけの柔軟性が備わっていなければならないのは言うまでもないであろう。
「自己」 は 「他者」へ、「他者」 は 「自己」 へと一気に相互陥入するのである。
いや、「自己」 やら 「他者」 やらと、われわれが呼んでいるよりもはるか以前に、それらが混沌とした曖昧模糊とした状態 ―― 主客未分の状態と言って良いだろう ―― があって、その 「友好的」 とも言える 「共存状態」 のあとで、さまざまな 「文明史的歴史過程」 を経て、「自己」 とか 「他者」 あるいは 「フロント」 へと分節化が進展(「自己組織化」)していったのであろう。
 
さらに、西田幾多郎 を引用する。
「われわれの純粋経験の状態を一層深く大きくした知的直観によって、主客未分の超越的場で成立する経験に統一が与えられ、一なると共に多、多なると共に一となる自家発展が完了するのである」
『善の研究』より
 

 
生の営みの中で、延々と 「自己組織化」 を反復する身体、あるいは精神が、「私」 と 「世界」 とが一気に現れる 「場」 やそこにおける 「秩序」 を形成する。
しかし、時に、秩序の無法化、無秩序の制度化のプロセスをも生み出す。
統合失調症」 の機序を知ることで、そのダイナミックかつドラマティックな場面展開を垣間見るのである。
 
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